アランとケイト

ケイトちゃん

.アランとケイト

■プロローグ
男が二人、何かを追っている。
手には銃こそ持っていないが、短いが硬そうな棍棒のような物を振りかざして町の中を走っているのだ。
猫を追っているわけでもないだろう。しかしかなり物騒である。
猫ではないその獲物は小さな女の子だった。12~3歳くらいだろう。
着ているのは黒くて麻のようなゴワゴワの、これがワンピースと言ったらワンピースが怒りそうな、見事なほどみすぼらしいワンピース。
色が落ちたような白い髪はクシャクシャを通り越してゴワゴワ。
ゴワゴワ少女である。よく見ると身体中も黒く汚れている。
そんな中でサファイアのような深く青い瞳だけは全くよごれていない。いや、今は涙がにじんでいるが。
傍目にはこの子は実にすばしっこく、複雑な路地を上手に逃げているように見える。
子供しか通れない穴を抜けたり、身軽に塀を登って行ったりしている。
しかし所詮は子供である。背中が見える距離まで二人の男は迫ってきた。50メートルも無いに違いない。
そして路地はT字路になる。女の子は一瞬躊躇するも全速力で右へ飛び込んだ。

■出会い
俺は警察の追跡から逃れるため、いつも使う路地に潜んでいた。金持ちのいけ好かないばあさんから財布を掏ってやったのだ。
まさか警察があんな近くにいるとは思わなかった。何故俺はいつもこうドジなんだ。
しかし俺は見つけられないぜ。帽子とバンダナで顔はわからないし、だぶだぶの服は体型もごまかしてくれる。
そうさ。俺は今まで捕まるようなヘマはしたことがないのさ。
何しろお巡り達と来たらバカの一つ覚えのように「待てー。」と叫びながら追ってくる。
こりゃスマホのGPS機能よりもわかりやすい。
肩に担いだバッグの中から一切れパンを取りだしてほおばる。
もう最後のパンだが、心配はしていない。金は手に入ったし、高そうな財布は友人が換金してくれるのだ。
俺は路地裏で変装を解き、バッグに突っ込んだ。小柄だがちょっとハンサムなお兄さんのできあがりだ。
お巡りの声も聞こえなくなったし、堂々と表通りに出て行こうとしたその時!
誰かがいきなり腹に体当たりをしてきたのだ。しまった!油断した、と俺は思った。
しかしどうしたことか、体当たりしてきたヤツはそのままの勢いで壁にぶつかって倒れ、今よろよろと立ち上がろうとしているのだ。
子供じゃないか。なんか臭いぞコイツ。風呂にも入ってないようなその子供は、俺に謝るでもなく路地の奥に逃げようとしている。
大人に対するマナーってヤツを教えてやろうじゃないか、と襟首のあたりを掴んだとき声が聞こえた。
「確かこっちに入ったぞ。」
いや、さっきのお巡りではない。もっとずっとやばそうな声だ。とっさに子供をゴミ箱に突っ込む。
ちょっと気の毒な気もしたが、こいつだったらゴミ箱の方がまだ綺麗かもしれない。
そいつらは二人だった。俺と目が合うといきなり衿を掴み「子供がこっちへ来ただろう。」と小柄の方が訊いてきた。
人にものを尋ねる態度ではない。言ってやった。「ガキならだいぶ前に行っちまったぜ。」
「うそをつけ。」とでかい方。……全く信じやがらねえ。俺はバッグの中の変装道具を見せる羽目になる。
しかしこれに時間を食ったせいか、追うのはあきらめたようだ。去り際、小柄の男の捨て台詞。「おまえもろくなもんじゃ無さそうだな。」
変装道具はバレバレだったようだ。だが警察にチクるほど暇でも無さそうだ。大丈夫だろう。

■帰宅
奴らの姿が見えなくなるのを見届けたあと俺はゴミの回収をするわけだ。
扉を開けるといきなりそいつは俺の手首にかみついてきた。思わず思い切りひっぱたく。
やはりマナーだけはきっちりたたき込まなければ、と思った。
叩かれた子供は手をほおに当てたままこっちを睨んでいる。
その時初めてこの子が細っちい女の子であることに気づいた。人に決して馴れない野良猫のようだがな。
野良猫が声を出した。「も。」
なんだよ「も」ってのは。
「もしかして、助けてくれたんですか。」
これは驚いた。綺麗な声、そして言葉遣い。こりゃあただの乞食娘じゃねえ。
金になるか。と思ったが、もっとやばいことになるのもごめんだ。
「わたしを匿ってもらえませんか。」
来たよ。これがいやだって言ったんだよ。
「うまく逃げ切ることを祈ってるさ。じゃあな。」
三十六計逃げるにしかず。その場を速やかに離れることにした。……のだが。やろう、俺の袖を掴んで引き留めやがった。
「お願いです。何でもします。」
唐突に歌い始めた。ここいらの民謡だ。それがうまいからびっくり。大人びた生意気な歌い方でなく、そのままの素朴な感じなのだ。
こちらがあっけにとられていると、次の手を打ってきた。
今度は踊り始める。
「こりゃあとても素人とは思えねえ。」
それほど見事に踊った。腰をくねらせながら踊るベリーダンスだ。
ガキなだけにその辺は失笑ものだが、必死な顔を見ると笑えなくなる。
思いっきり訳あり娘なのだろうが……。
結局連れて帰ってきた。

■オンボロアパート
アパートに戻ると早速ダミ声の洗礼を受ける。
「オイ、アランだろ。」大家のばあさんだ。
「今日は払ってもらおうか。先月じゃないよ。先々月だよ。」年の割に物覚えはよい。
「分かってるさ。大金見て腰抜かしやがれ!」
「100ピスのどこが大金さ!それすらため込みやがって。」
「あとで持ってくから待っとけよ!」というとオレ達は足早に階段を上っていく。
ドアノブに手を掛けて引っ張ろうとしたとき、何か違和感を感じた。オレは後ずさる。
「部屋に誰かいる。」さっきまで追いかけられていたからよけいに気になる。
「女の人かな。」ガキが知ったようなことを言うんだなこれが。
でもそれが当たりだった。
「アラン?ちょっと邪魔してるわよ。」という声。
ほっとしたというか、よけいに緊張するというか。この女は先月まで一緒に住んでいた女だ。……実は、逃げられたのだ。
「カレンか、何の用だ?」
「置きっぱなしの靴やら服やらを取りに来ただけよ。」といいながらこちらを振り向く。
そしてその目がこのガキを捉えるとみるみる大きくなった。
「アンタは人でなしだけど遂にそこまで……。」「な、何だよ。」
「人身売買……。」「ちがう!!」皆まで言わせず速全否定。
「そんなヤバイ事できるか。ただちょっと訳ありで、しばらく身を隠す手伝いをするだけだ。」
「そうなの、ふーん。」これは半分以上信用していないな。
「あんた一人で大丈夫なの?」と聞かれたが、それはオレが聞きたい。
「どうもどっかから逃げてきたようなんだ。ほとぼりが冷めるまでさ。そう時間はかからないだろう。」
とは言ってみたものの、オレ自身ひどく不安だ。
カレンが助け船を出してきた。「しょうがないわねえ、時々来てあげるわよ。」
これは実は心底ありがたかった。
「面倒かけついでで悪いんだが。」「悪いね。」「即答かよ。まだ何も言ってない。」
「お前の踊りの先生は、今もそこの地下倉庫で教えてんのか?」窓の外を指さして聞いた。
「そうよ。外に出られない身体らしいわ。」
そう。こいつの先生のところには「いろんな種類」の踊り子が習いに来ているらしい。けっこうアンダーグラウンドの教室だ。町の人間はほとんど知らない。
「こいつも通わせてくれないか。」この子を指さして聞いてみる。
こんな状況だから人に見られたくない。このアパートからなら人目につかずに行き来できる。
「月謝とか、どうすんのさ。」当然の疑問だ。オレに当てがあるわけがない。でも一応言ってみる。
「こいつはオレから見てもなかなかやるぜ。出世払いだ。」ははは、我ながら図々しいにもほどがある。
「あの欲深なオバハンが言うことを聞くかしらね。」
そして女の子の方に向き直って言った。
「アンタ、ちょっとここで踊って見せてよ。」
女の子は始めぽかんとした顔をしていたが、オレをちらっと見たあと、小さく頷いた。
そして一つ深呼吸すると、両手を左右に大きく広げ踊り始めた。
先ほど必死に踊りを見せたときの焦りのようなものはない。ただ本職の前で若干緊張はしているようだ。
初めはゆったりと踊っていたが、次第に動きは大きく、激しくなってきた。部屋中を廻り、床を踏み鳴らし踊り続けた。
「こいつはすげえ。」
路地で見たときとは数段迫力が違う。こいつも本気で踊っているようだ。
しかしそこはオンボロアパート。さっきの大家が階段を駆け上がってきてドアを叩きながら叫んだ。
「何をドタバタやってんの!天井が崩れるだろ。やめなさい!」
まあそうだろう。あれだけドタバタやったんだ。しかしオレに言わせると、ドアを叩くのもやめて欲しい、壊れる。
だがそうは言わず「分かってるよ。もう止めたよ。」と言って、大家を玄関払いした。そしてふりむくとあらまあ、カレンが女の子の服を脱がせている。
「おいおい何をしてんだよ。」若干狼狽気味に言うとカレンがちょっと興奮したように言った。
「これからすぐにお師匠さんのところに連れて行くわ。まずはシャワーを浴びさせて身なりだけでも小綺麗にしないと。」
「そうか、その気になってくれたか。」オレはほっとした。
「ええ。今のはきちんと習ったものだわ。いったいどこの子なの。」
ああ。うっかりしていた。どこから来たのかも聞いてないし、名前すら聞いていなかった。
「いや、まだ何も聞いてない。」といいつつ、女の子の顔を見る。
「私の名前はケイト。イワンさんのお屋敷にいたのよ。」と、ここまで言って急に「帰さないで!」大きな声で言った。
「わかった、わかった。帰すくらいならここまで連れてこねーよ。」
これで知りたいことは知ることが出来たのだが、何だかヤバイ名前が出てきたようだ。イワンだって?大金持ちの男だが、どうにも良い噂が聞こえてこない奴でもある。
でも今はまずこれだ。
「ほら、このねーちゃんとさっさとシャワーを浴びてこい。」

■カレン
「うん。」と頷くとカレンの方を見て言った。「その先生の所へ行った後は、またここに帰してくれる?」心配なのだ。
カレンはこの裏町の安酒場で歌や踊りを披露して食っている。少しは人気もあるらしい。オレも先月まではその金を当てにして生活していたんだが、今は別れさせられている。いや、三行半を突きつけられたのだが。
そんな彼女には師匠と呼ばれる先生がいる。かなり厳しく鍛えられているようだ。仕事の時より、練習後の方が疲れている。決して表に出てこない怪しさ満点の中年女だ。今はかえって好都合なのだが。
カレンはオレと同じで身寄りがない。一緒に暮らすようになったのも、同類相哀れむ、って奴だ。それでも逃げられたのはオレのろくでなしさゆえだな。
あとで分かったことだが、カレンはどうももう少し立派な場所で踊れるようになったらしい。師匠の口利きがあったのだ。オレからますます遠ざかっていく。出世とはこういうことを言うのだろう。
そんなことを考えている内に二人がシャワーを使い終わって出てきた。
メガネを取ったら美少女!というのは王道であるが……。
今ここでは「シャワーを浴びたら美少女!」である。
バリバリの髪を櫛で整え変身を遂げたケイトはなかなかの美少女ッぷりである。細くて華奢な感じだが、肌が白い。黒いのは汚れだったようだ。まあ、痣とかではなくて良かった。
カレンのコートを着せられてケイトはこのすぐ近くにある倉庫の地下を改造した教室へ行くのだ。「待っててくれるよね。いなくならないよね。」何度か振り返りケイトはカレンに手を引かれ部屋を出て行った。

■イワン
イワン邸は町の西にあり、小高い丘の上に、町を見下ろすようにそびえている。
国王程ではないにしろ、かなりの財産を持っているらしい。こんな場所に居を構えられるのも王室への献上金の賜物なのだろう。但し道は一つあるだけなので、どこかに出掛ける場合は町に降りてこなくてはならない。
だが、この商人は悪い噂がとぎれることが無く、山の裏から自由に行き来しているとか、その際にたくさんの密輸品が取引されているとか、要人の誘拐などを手がけているとか、いろいろ言われているのだ。
ケイトはそんな所から逃げてきたわけで、これは相当にやばいことなのかもしれない。
しかしオレはそんなガキの面倒を見なくてはならなくなっている。
そんなことを考えていては、酒を飲んでも酔いが回ってこない。

■レッスン
二人が帰ってきた。カレンの表情が明るい。ケイトはまた踊らされたのだろう、少し上気した感じにほおが紅潮しているようだ。
「アラン、この子けっこう筋が良いわよ。師匠もそういってた。毎日来なさいって。」
「やっぱり才能があったんだな。毎日って、平気なのか?」
「そう言ってるんだからいいんじゃない?」
「カレン、お前はどうする?」
「もちろんここからは出て行くわよ。」
「そこは変わらないんだな。」
「何よ、寂しい?」
三行半のショックは一応あるのだが、そこは強がって「そんなんじゃねーよ。」と、一応は言っておく。
「私はね、オーストリアっていう国の大きな劇場に呼ばれているから行くのよ。言ってなかったわね。」そりゃ初耳だ。やっぱりそうだったのか。
「聞いてねえ。長くかかるのか?」と聞いてみた。もしかしたらオレは愛想尽かされたのでは無いのかもしれないぞ。
「まあ、見習い期間も含めて、ステージに上がるまでには一年はかかるわね。」
「お前でもそんなにかかるのか。師匠がよく手放したよな。」
「うーん、あの人も自分の教え子がよその国の大劇場に行く者が出るのは嬉しいんじゃない?」
何を偉そうに……。でも分かる気がする。こんな場末のストリップ小屋みたいな汚い酒場で終わらせたくないのだろう。
カレンが続ける。「そんな時にこの子でしょう。一から育ててみたいんじゃない?」
その師匠からすれば有能な素材を見いだした気分なのだろう。こいつはなかなか外へ連れ出せないのだから、気晴らしにもなるしいいだろう。そしてもう一つ気になることを聞いてみる。月謝だ。
「いらないって。」「ほんとかよ。」びっくりした。大助かりだ。
「でも、教室の掃除とか、師匠の世話とか、多少して欲しいらしいわね。」
「それは金はもらえるのか?」ビターン!叩かれた。
「アンタって人は。月謝の件だけだって大変なことなの。交換条件なの。」だそうだ。
「この子もね、がんばりますだってさ。」
ケイトの方を見ると、先ほどまでのちょっとおどおどしていた感じが無くなって、何だか活き活きしているようにも見える。単純な奴だ。ケイトに言って聞かす。「お前、その代わりこの部屋のこともちゃんとやるんだぜ。」すかさず「はい、分かりました。ちゃんとやります。」だとさ。甘く見るなよ。こき使ってやる。こちらがそんな風に思っているのにただただ嬉しそうだ。
「後はこのおじさんとよく話をして、ちゃんとしなさいな。」
そう言うとカレンは「じゃあ、私は行くわね。」と言って出て行った。あちらも嬉しそうだ。本格的なステージに上がれそうだし無理もない。
そしてこのオンボロアパートにオレのようなオッサンとまだまだ幼い女の子が残されたのだ。

■ブライアン
「おいガキ。仕方ないからここを宿として使わしてやるが、食い物はねえ。何か食いたければどっかから盗んでこい。」
そうオレはケイトに凄んだ。助けてやったときに噛みつかれたことがどうも残っているらしい。
「じゃあオレは出掛けてくるから外に出るんじゃねーぞ。」いきなり矛盾した言動である。
オレは昼にすり取った財布を持ってブライアンの所に向かった。リッチー・ブライアン・リック・ギルモア。こいつは年はだいぶオレより上なのだが、この町で数少ない話の分かる奴だ。本業はギター弾きなのだが、それだけでは当然ながら食ってはいけず、せっせと副業に精を出している男だ。副業とはとりあえず人に言えない仕事である。ワケありの品物の売買、交換、換金等をしているのだ。オレがコソ泥してがめた品物を持って行けば、上手くすると金に換えてもらえたりする。こいつはあのイワンの屋敷にも出入りしているようだ。
イワンの屋敷とスラム街の間は小さな谷になっていて、小さな川が流れている。むしろ水路と言った方がいい小さなものだ。たまにある水門は、その川をせき止めるものだ。このあたりはわずかだが石炭が採れる。採掘時には川を堰き止めておくようだ。目の前にある水門の近くには二つのほったて小屋がある。相当傷んでいるのだが、「まだましな方」は現在も水門を操作するときに使われている。傷みの激しい方は壊すのも面倒というようにそのままほったらかしてあるようだ。その壊れかけた小屋の戸の前に立つ。「アランだ、入るぜ。」始めに名前を言わずに入ろうとしようものなら、容赦ない銃撃が襲ってくるらしい。
中に入ると火薬の臭いがかすかにする部屋の奥に机があり、イスには髪が長く鼻の下にわずかにヒゲをたくわえた五十くらいの男がいる。昼でも薄暗い小屋の中はこの黄昏時はかなり暗くなってしまっている。机の上のランプだけが頼りだ。
サイフを渡す。ブライアンは噛みつきそうな表情でサイフを眺めていたが、やがてぼそりと「ダメだな。」これだけ。これしか言わない。つれない奴なのだ。
「実はオレは今夜から飯を二倍食うようになったんだよ。食い物が欲しい。どうにかならないか?」一応言ってみた。そうしたらこの男、金をよこすんではなくて、深い器にシチューのようなものを入れてオレによこした。実は優しい奴なのだ。ただ、優しさの方向が変なだけなのだ。
「あのばあさん、サイフには金をかけてなかったのか。くそう、にわか貴族め。」財布をすり取ったばあさんに毒づく。

■二人暮らし
真っ直ぐアパートに戻らず、近くの露天商の所に立ち寄って、パンやら、野菜やらを買った。サイフは安物だったが、中の金は誰にも公平に食い物をもたらす。盗んだ金でも例外ではない。真綿を少々とと大豆を入れていたらしい麻袋も買った。
ゆっくりを歩きながらアパートへ戻ってみると、大家の部屋からケイトが出てきた。目が合ったがすぐに俯く。そして一緒に部屋に入る。ケイトがランプに火を付ける。向こう向きのまま「お帰り。」とか言っている。
……おどろいた。部屋がきれいに掃除されている。オレの部屋の壁は白かったのだ。知らなかった。だがオレは言ってやった。
「フン、余計なことを。」いやな顔をすると思って顔を見たが、別に変化はなかった。褒め言葉などは期待していなかったのだろう。その期待には応えたわけだ。
そしてそのキレイに片付けられたテーブルの上にシチューの入った器と、豆やら野菜やらを乗せて言った「さあ、食え。」
こっちを見てきょとんとしているケイト。遠慮でもしてんのか?スプーンは一つしか無い。まず俺がスープをすくって飲んでみる。ケイトに渡す。こうして二人で順番にスープを平らげた。小さな器に二人である。すぐに無くなる。豆と野菜だが、さすがにこれはすぐには食べられないので明日以降にするつもりでかごに放り込んだ。
静かな夕食の終わりだ。一人で静かなのはとても心地いいものなのだが、二人で静かというのはどうにも困りものだ。
「さあ、ランプも点けていては油がもったいない。もう寝るぞ。」俺は自分のベッドを使う。俺の権利だ。そこでケイトには先ほど手に入れたズタ袋を投げてやる。中に綿を詰め込んであるから別に冷えはしない。冷たいって?冗談じゃない。わざわざこの為に金を払って買ってきたのだ。感謝しすぎて寝られないというのならわかる。
これで文句を言ってきたら「たたき出すぞ!」と言って脅かす予定だったが、文句も言わず、しかしあれこれ悩みながら何とか袋に潜っていったようだ。
俺は寝付きがよい。すぐに眠りに入ることができる。だが、普段ろくな事をしていないせいか、ちょっとした物音でもすぐ目を覚ましてしまう。今がそうなのだ。不気味なうなり声が聞こえて目が覚めてしまったのだ。犯人は何のことはない。ケイトである。ケイトがズタ袋の中でうなっているのだ。嫌な夢でも見ているように。逃げ出してくるくらいだからだいぶ嫌なところで暮らしていたのだろう。あるいは、ここ四五日逃げ回っていたらしいから、その時のことを思い出しているのかもしれない。おまけに歯ぎしりまでし始めた。
間違いないのは俺が寝不足になると言うことだ。

■朝の出来事
案の定翌朝の俺は寝不足で、とてもじゃないが出かける気力が湧かなかった。仕方がないから部屋でごろごろしていることに決めた。こんな時いいにおいのする朝食が準備されていたりしたら王道なのだが、さすがにそれはなかった。そう。材料がこの部屋にはないのだ。
ケイトの奴がどこかに出かけようとしていた。例のワンピースを着て、手には大きな袋を提げている。外には出ないだろうが聞いた。「どこへ行くんだ?」「大家さんの部屋。」それなら追っ手の心配はない。部屋の中ばかりでは気が滅入るだろう。「ゆっくりしてこい。」と言ってやった。優しいって?何を言ってる。一人で静かにいたいだけだ。するとケイトの奴はこっちを見てニコッとしたような気がした。ふーん。笑うこともあるんだ。
夕べの寝不足を補うべく俺は二度寝することにした。「これからあの「うなり」に悩まされるのかと思うとげんなりだぜ。」と悪態をつきながら寝たのだが……程なく起こされた。
「人が気持ちよく寝てるのに起こすんじゃねえよ!」と怒鳴ったのだが、ケイトがなにやら驚いている。「……アラン。」「何だよ!」「アラン、心臓がないんだけど。」「はあ?」こいつ、寝ている俺の胸を触ったのか?なんて奴だ。だが思わず笑いそうになっていた。「ああ、これな。」実はそうなのだ。いや、無いわけじゃない。「俺は心臓が右にあるんだ。」ちょっとイタズラ心が湧いたので、ケイトの手を取って右の胸に当ててみせた。一丁前に恥ずかしがってやがったが「あ!本当だ。」素っ頓狂な声を出した。納得したようだ。
「医者が言うにはだな。俺の内蔵はそっくり逆になっているらしい。生まれつきなんだ。」そう言ってやるとケイトは「苦労したんだね。」とか言っている。いや、これで苦労したことはないから。俺はわかった。こいつ、ケイトは「ちょっとズレている」のだ。
いい香りがする。驚くなかれ、朝食ができていたのだ。テーブルの上にシチューとパンとミルクが置いてある。そのシチューは昨日のよりずっといい香りがする。
「大家さんのところで作ったんだけど。アランに持って行きなって。」
旨かった。第一、朝食なんてここ何年も拝んだことがない。カレンは料理がからっきしだったからだ。満腹になってとても満足な気分になった。だが一応きっちり言っておく。「なかなか旨い。だがな、これで夜のうなりのマイナスを帳消しにできるほどじゃないからな。」表情が変わった。「わたし、何か言った?」と詰め寄ってくる。お、お、何か強気じゃねえか。「うーうーうなってたんだよ。別にしゃべってたわけじゃない。」そう言ってやるとケイトは「……そう。ま、いいか。大家さんの所にまた行くから。」と言いながら部屋を出て行った。
すっかり起こされてしまったし、まあ、どこかへ出かけてみるることにしよう。

■町をぶらり
この町は割と大きな町だ。王様のいる城もある。まず中央に大きなまあるい広場があり、そこから放射状にいくつかの道が延びていて、それによって区画が分けられれているようである。その一つは城であり、その一つは教会であり、農場や牧場、そして民家とおおざっぱだが分かれている。今住んでいるスラムもその一部である。広場から見ると、工場が並んでいる地区の奥、小さな谷を挟んで左がスラム。そして右の奥にイワンの邸宅がある。
その家は小さな山の中腹あたり。町全体を見下ろすように建っている。放射状の道の両脇には商店や、露店が並んでおり、結構人通りも多い。まあ、スラムの住人である俺は店で何かを買うことはあまり無い。万引き、置き引き、かっぱらい程度の収入では、店に入って買うような余裕はないのだ。カレンと一緒にここに流れてきて以来二年くらいになるが、あの女の収入を足しても、大した暮らしはできなかった。
それなのに今度は何だ。収入の全くない居候がいるんだぞ。きついに決まっている。
そんなことを考えながら歩いていると、道の上に布を敷いて、アクセサリーのようなものを売っている店を見つけた。
俺も飾り物は嫌いではないが、カレンの言葉を思い出す。「女の子はね、こういうのには弱いのよ。」
そんなもんかね。
「じゃあ、これをたくさん持っていればたくさんの女が寄ってくるのか!そいつは便利だ。」
こんなことを言って、よく叩かれたもんだなあ。そんなことを考えているうちにいつのまにか買っていた。ガラスとメッキの安物の指輪だ。それをポケットへねじ込んで家へと戻る。
部屋に戻ると昼の準備ができており、とりあえず食う。これからはこんな状態が続くのかねえ。かえってめんどくさいんだよな。……なんて言ったらまずいのか。「あ、食べてる。」部屋に入るなりケイトが言った。「これからレッスンなので行ってくる。」と言うので「ああ。」と気のない返事を返した。だが後ろ姿は嬉しそうなんだが。飯を食っただけでそんなに嬉しいものなのか。その辺が面倒くさいんだよな。
その夜遅くに戻ってきたが、疲れたらしくさっさと麻の大豆袋に入って寝てしまった。先に寝ないと、と思っていたのだが後れを取ってしまった。しかしその夜は例の「うなり」は無かった。「これだ!」踊りのレッスンで疲れている状態がいいのだ。うんうん、毎日レッスンしてもらおう。
だが実際はその師匠、こちらの思いを上回るほどの力の入れようで、黙っていても毎日呼び出されるのだ。
疲れ果てて夜はぐっすり寝て頂きたい。実際初日以来はうなされることもなくなった。

■慣れ
いつの間にか一ヶ月が経った。ケイトが部屋の中でちょろちょろしているのにも慣れてきたし、起きれば朝食がある生活にも馴染んできた。俺はと言えばブライアンの所の怪しい小物をスラムで売って金にしたりしている。スラムの住人相手の商売だからろくな稼ぎにはならない。無いよりはまし、という程度である。
夜になってアパートに戻ると大家に呼び止められた。「ああ、家賃な。ほれ。」といって金を払おうとすると「いや、家賃の方は今月はもういい。」と言い出した。この大家はアパートの一階に住んでいるが、そこでは小さな店をやっており、小麦粉だの香辛料だのを本当にささやかだが売っている。香辛料ってのはやばくないか?いや、ストーリーとは別にね。ケイトがその店を手伝っているのだ。あまりやる気のない大家よりもよっぽどちゃんと店をやっているらしい。末恐ろしいガキだ。そして大家。何を言い出すかと思ったら「あの子をあたしに預けてくれないかねえ。」と来た。確かに日のうちは俺の部屋にいるより大家の部屋や大家の店にいる方が多いのだが。しかしだ。よく考えてみるとそれは悪くない話だ。ちっちゃいとはいえ女の子であるし、いろいろ気を遣うのだ。それはだな。とても面倒くさいことなのだ。ケイトにしたって大家の家なら秘密の保守的にも何も問題ないし、いいんじゃないか?そんな結論に達し「おう、持って行け。」と返事をした。「ただし、危険な目には遭わせるなよ。そして……、家賃は永久に無しだ!」最後の付け足しは我ながら最高の思いつきだと自画自賛した。笑って終わる話だと?ったらどうやらそうでもないようだ。「ああ、わかってるよ。」と言われたのだ。
これでケイトは俺の所から出世して大家の子になる。そして俺は永久に家賃から解放されるのだ。

■意外な言葉
何も知らないケイトはレッスンから帰ってくるとすぐに大家に呼ばれて部屋に入っていった。先ほどの話を聞かされているのだろう。どんな顔をして聞いているんだろうか。目を輝かせて喜びいっぱいの顔が浮かんできた。
あれ?何だか俺、面白くないんだが。
しばらくして部屋に戻ってきたケイトに俺は声をかけた。「おいケイト、大家にいい話をされただろう。今日からでもあっちで寝たらどうだ。」と言ってやった。それがだな。思ったより優しく言ってしまったのよ。なんだこれは。
しかしケイトもいつもと違っていた。泣いていた。「こんなわたしを育ててくれるって言った。」
「そうだろう。気に入られたみたいだぜ。」これは本当だ。
しかし次に来たケイトの言葉は何だかモヤモヤしていた俺には強烈に効いた。
「ねえアラン。わたし、ここにいちゃダメなの?」
「な、何言ってんだよ。」
「だってだって、わたしはアランに助けてもらったのよ。」
「うん、まあそうだが。」
「これでもわたしはそのお返しをしたいと思ってるのよ。」
「俺に気を遣う必要は無いさ。」
「もちろんずっとここに居るとは言わないわ。いつかはこの街も出て行かないといけないし。大家さんもお師匠もとってもいい人よ。でもわたしはここに、この部屋に居たいんだってば。居させてよ。」
めずらしく長いセリフをまくし立てた。半泣きでだ。だが問題は次に来た。
「わたしはアランが好き。大好きなの。あなたはわたしが嫌いみたいだけど。わたし、いつだってあなたの顔を見ていたいのよ。」
俺の目が点になる。
「できるだけ邪魔にならないようにするからここに置いて。お願いだから。居ていいって言ってよ!」
びっくりなことを言い始めた。いつも何だかつまらなそうな顔をしていたじゃないか!
カレンが出て行ったこともあり、確かに面白くなかった。だからカレンに八つ当たり的に冷たくしていたのはわかっている。見ていると俺と違っていろいろ才能ありそうなこともしゃくのタネだったことも認める。俺は嫉妬していた。こいつに。そんな俺のどこに気に入られる部分がるってんだ!主にやけくそである。
まあ、俺はスケコマシ顔ではあるが、今はそんなこと言っている場合ではない。
「わたし大家さんとこ行って断ってくるわ。」言うなり飛び出していく。
俺はまだ何も返事をしていないのだが。
「おーい、色男!」
うわ、あのガキ、大家を連れて来やがった。
「このおんぼろアパートじゃあまるぎこえなんだよ。」
まあそうだろう。

■提案
「あんたさ。この子はここに来たときからアンタを『父親のように』慕っていたんだよ。それをアンタったら、あんなに冷たく扱って。」
あの表情からそれは読み取れねえって。
「この子はそれでもうちで食事を作ったり店を手伝ったりしてね。このちっちゃい体で精一杯頑張っていたのさ。家賃の足しにするためにね。このままではアンタ。ろくな死に方をしないよ。」
そこまで言うかい!と言えなかった。こいつ、いつの間にそんなずるい手を……。あっ、いや、すまない。そんな健気っぽいことを、に訂正する。
そしてたたみかける大家。
「アンタね、これからまっとうに暮らしてみる気は無いかい?」
「バアサン。そんなこと急に言われたってよ。」
「あたしはね、この店は一人じゃとても続けられないって思っているんだよ。どうだい二人とも。これからこの店を手伝っていかないかい?『親子』仲良くさ。ずっととは言わないよ。」
おーい、色男とか言っておいて父親のようにとか、親子とか、なぜカギ括弧付きで言うんだ。いや、問題はそこではなくて。
「アンタこれからもスリやかっぱらいで生きていくのかい?あっという間に正体が知れ渡ってやって行けなくなるよ。この子が現れたのはいいチャンスじゃないか。天の思し召しだよ。あたしだってアンタのことは心配してんだ。」
さっき程じゃないが、これもびっくり発言だ。
結局ケイトは俺の部屋で暮らすことになる。今まで通りだ。
ただ違うと言えば、ばあさん、どこから持ってきたのか子供用ベッドを持ってきて部屋にでんと置いた。ズタ袋ベッドもバレたにちがいない。部屋が窮屈になると言うことだけは俺にもわかる。
俺は俺で、こいつが邪魔だのなんだのと思うことはやめることにする。どんな人間だって本音でずんずん迫られればたじろぐものなのだ。
しかし狭くなったはずの部屋は日に日に使いやすくなっていった。ケイトがどんどん整理整頓始めたからだ。盛大に告白してしまったケイトはさすがに気まずくてあまりこっちを見ない。だが片付けは実にてきぱきやっていた。テーブルの上には花まで飾ったりしているのだ。ここは誰の部屋なのだ?見覚えのある俺の部屋でないことは間違いない。
さて。俺はケイトに何を話して、何を聞けばいいのだ?「ちょっと来い。そしてここに座れ。」

■身の上
気がついたらイワンの屋敷で働いていた。いや、働かされていた。それも違う。『教育』されていたのだ。読み書き計算をはじめ、掃除やら炊事やら、果ては礼儀作法言葉遣いに至るまで広範囲に。そして歌や舞踊もそれに含まれる。近隣の外国語もである。学校には行かないがいろんな人間が代わる代わる叩き込む。
同じ境遇の女の子があと二人いて、いつも三人で行動していた。こうして聞いてみると、孤児を預かりしっかりとした教養を身につけさせる素晴らしい善行を施しているかのようだが、そうじゃないのは明白だ。孤児なんかじゃない。人身売買か誘拐だろう。それは何故?
女の子達も初めは10人くらいいたらしいのだが、素養が無かったり逆らったりした子供らが少しずついなくなっていったのだ。ある日ケイトはそんなうちの一人が馬小屋の馬たちにエサをやっているのを見たという。他の子は見ていない。行方はわからない。なんにしても三人は残った。つまり彼女たちはいろんな面で出来がよかったのだ。そして三人には次の教育が待っていた。
ナイフの扱いである。小さな10歳の女の子のことである。無論格闘用ではなく、ただ投げるのだ。ただし的に当て続けることが要求された。ここでケイトは二人に差を付けられることになる。ケイトだって五回投げれば五回とも的に当てられるのだが、二人は違った。二投目以降、的に当たらないのだ。全部最初のナイフの柄に当てるのだそうだ。誤差の出るケイトの方がよっぽど可愛げがあるだろう。くどいが10歳の女の子達だ。イワンの狂気はこれでわかる。ほかにも扱いを教わる物はあったし、ケイトが抜きんでて優秀なものもあったらしいが、詳しくは話さなかった。

■最終試験
だがこの3人はその後2年間、みっちり仕込まれることになる。3人の競争心も相当あったようだが、ある日事件が起きた。
1人が暴れ始めたのである。一番優秀だった子だそうだ。優秀だったにしても子供である。何かに耐えられなかったのだろう。
大人達がやってきた。ケイトともう一人の少女を建物の端の小さな部屋に押し込めた。もちろん危険を回避させるためなのだが、どちらかというと「逃がさないように」と感じてしまうのはある意味仕方が無い。
イワンの部下達は部屋のドアの外で。その少女はテーブルを重ねてバリケードを作ってあるが、部屋の隅で。お互いにらみ合う形になった。何しろイワンの秘蔵っ子である。部下達も飛び込んで抑えれば良いのだが、怪我をさせてはならないと思うとなかなか手が出せない。しかも相手はとんでもない投擲の名手と来ている。
その少女、リズは「わたしをここから出して!」と叫んでいる。屋敷内の生活が我慢できなかったのだ。ある意味これが自然の反応なのだが。
ナイフをどっさり準備しているようだ。もうこれは発作的な行動ではない。たぶん考えた上での行動だろう。
「何をやってるんだ!」そこにこの事を知ったイワンがやってきた。部下の男に事情を聞いていたが、やがて部下に指示する。
「ハナはどうした?ここに連れてこい。」
ハナというのはケイトと一緒に小部屋に押し込められたもう一人の少女であった。
ハナは部下の男に呼ばれ部屋を出て行った。ケイトは一人残された。
ハナはイワンの前に連れてこられた。イワンはニヤリとするとハナに大きなナイフを手渡した。
「リズを殺せって言うの?」訓練漬けの子供達ではあるが、さすがにこれには驚いたようだ。
「おまえの力を見せてみろ。首尾良く終わらせれば俺の警護役としてそばに置いてやる。」静かに諭した。
強い競争心を持っていて、なおかつ微妙な年頃の少女だ。この言葉で心を決めたようだ。
ハナはナイフを背中で隠すようにスカートのベルトに挟み、入口近くのテーブルの上に置いてあった分厚い本を左手に掴むと部屋の中に飛び込んでいった。イワンの部下達が驚いて止めようとしたほど無防備に突っ込んでいった。イワンだけがにやにやしている。
「リズ!そこにいるんでしょ!」叫ぶと同時に何かがひゅうっと飛んできた。リズの投げたナイフだった。優秀な投擲者のナイフである。正確に近づく者の心臓に飛んできた。避けられっこない。ハナもそれはわかっていた。わかった上での突っ込みである。ハナが胸に抱えていた分厚い本にそれは深々と突き刺さった。間違いなく心臓を狙ってくると決めた上での特攻だった。死も覚悟の上だった。だが読みが的中したハナは更に叫ぶ。「リズ、リズ!わたしよ。ハナよ。」
それを聞いたバリケードの中の少女が身を乗り出した。「ハナ!!わたし、わたし……。」半泣きである。しかし次の言葉は出せなかった。もうその時にはリズの胸にあの大きなナイフが突き刺さっていたのだ。「あっ、あっ。」一瞬、胸のナイフを睨んだようだったが、やがていやいやをするように首を左右に振りながらそのまま後ろにひっくり返った。すでに事切れていた。

■逃走
イワンはかなり満足したようで、ニヤニヤしたままハナの肩を掴むと、二人の男と共に自分の建物に戻っていく。
その時イワンはこう言ったそうだ。「死体はちゃんと始末しておけ。もうカレンも必要ない。どこかへ売ってしまえ。」
小太りの背の低い男と、背が高く筋肉質の男は顔を見合わせた。心底ゾッとしたのだ。
結局この事件はイワンにとっては、自分のボディーガードの最終決定試験となったのだ。
建物の中が静かになったのは小部屋の中にいたカレンにもわかる。ハナが「どうにかして」リズを「大人しくさせた」のだ。背中を悪寒が駆け抜けた。考えている猶予はもう無かった。その瞬間、ケイトは二階の窓から近くの大きな木に飛びついて地面に飛び降りると屋敷の庭を駆け抜け、入口の大きな門から下に伸びた階段を駆け下りていた。
先ほどの二人の男が後を追うことになる。ケイトが必死で逃げる。そして三日にわたり逃げ続け、その日の夕方、アランというコソ泥を生業としている青年の手首にかみついていた、というわけである。

■アランの変化
ケイトから話を聞いていくうちに、アランはどんどん青ざめていった。高額で売るために赤ん坊を誘拐し育ててきたイワンへの驚き、嫌悪感もあったが、それだけではない。このナイフ投げの名手の顔と言わず背中と言わず、アランはビッタンビッタン叩いたりしていた。そのことを思い出さずにはいられなかったのである。こいつめっちゃつおいじゃん。
話し終わったケイトの顔をのぞき込んだ。こっちを見て不気味に笑っていたらどうする?俺。
だがケイトはぼろぼろ涙をこぼして泣いていた。「もうリズは生きていないと思う。わたしはナイフなんか見るのも嫌。ああ、大好きなアラン、そんな顔しないで。」
いたいけ少女はいつの間にかずいぶんと大人びた言葉を放つようになっていたのだ。
「ああ、わかったよ。何も心配するな。」両肩を抱いてやると小さく嗚咽を漏らしながらしがみついてきた。
この日を境に俺がケイトを叩くことは無くなっていた。

■街へ
過去の思い出したくないことをすっかり話してしまったからだろうか。ケイトから少しだけ暗い影が消えたようだ。相変わらず踊りのレッスンは行っているし、大家から教わるのでろう料理のレパートリーも徐々に増えてきた。
何よりも変わったのがおしゃべりすることが多くなってきたことだ。所詮は12歳の女の子だ。本来は明るい子だったのかもしれない。俺の方も次第に普通に接することができるようになってきた。この頃は料理に注文を付けたりもする。12歳にしては背が低い方なのではないかと思われるケイトが、箒を持ってちょこまか動いているのを見ると、これはこれで可愛く見えないでもない。
そんなある日、大家のばあさんが部屋にやってきて俺たちに「約束だからね。」と言ってきた。いよいよ下の店を手伝うことになるようだ。
「あんたら街へ行き、いろんな店を見ておいでよ。うちはしけた雑貨屋だが、いろいろ勉強になるだろ。」
大家がそんなことを言ったので出かけることになった。二人で出かけるなんて初めてのことだ。しかしイワンの子分達に出くわす危惧があるので二人とも変装していくことになる。
俺は仕事上変装は得意だからいいのだが、ケイトは困った。年齢をごまかせる程度の背が欲しい。ただでさえ年の割には小柄な子なのだ。顔は布を巻いて何とかなるが、もう靴を工夫するしかない。デングの高下駄みたいなすごい高さの靴を即席で作って履かせてみた。
歩かせてみると動きがぎくしゃくしてそれはそれは見ていて楽しい。なんとか歩くことはできるようだ。何しろ本人は外を歩けるというのでうきうきしているようだ。しかも俺の同伴付きだ。上から長いスカートをはけば何とかなるだろう。
仕上がってみるとどうにも怪しい占い師みたいなのが出来上がった。もしかしたら人気が出るかもしれない。
さて、まずはスラム街から中央広場へ出る。ここは大きな丸い公園になっていて、その中心に高い塔がそびえている。上からの見晴らしは素晴らしいようなんだが、どう見てもケイトは登れまい。
「イワンさんの家からこの塔が見えるので、いつか来たかったんだ。今度は登ってみたいな。」「おまえが立派なレディーになったらだな。」もうとことん恥ずかしい家族の会話である。しかもここまでの間、ケイトは俺の腕にしがみつきっぱなしなのだ。「倒れたらどうするのよ。」って言うんだがどうにもケイトばかりが得をしているようだ。それでもまだヨタヨタしているのはまあ仕方が無いか。俺はといえばもうこれ以上無いというよそ行きの顔で紳士を気取っている。というよりも足の悪い娘を心配する父親の顔になっているかもしれないな。
「変装なんてしなければいいのに。」ケイトは小声で言うのだが、まあそうも行かない。俺自身も顔を知られているのだ。
広場には人が大勢いて、とても賑わっていた。小さなテントの下でいろんなものが売られていた。
「ほら、これとっても甘そうよね。」イチゴのような真っ赤な実を見てケイトは目をきらきらさせている。「これに砂糖とミルクをかけて食べると、もう最高なんだ。」と言うと「あら、アランは食べたことがあるみたいね。」と悔しそうな顔をする。見事な演技だ、と言いたいところだが、これはもうすでに本気で楽しんでいる。

■商売に思う
広場には野菜や果物、帽子、服、靴、アクセサリーなど、雑多な店が軒を並べている。みんなそれぞれの通りに店を持っているのだが、休日は人も多いのでこっちにも出店するのだ。店員と当たり障りのない話をしていくのだが、これでもけっこう接客が身につく。
さて、広場からどの通りを進もうか考えていたんだが、城の脇の緑が多く人気の少ない道を行くのは危険。ということでその左の賑やかな通りに入ってみた。このあたりも広場に負けないくらい人が出ている。
どの店も自分の品物には自信があるようで、盛んに勧めてくる。「どうだいそこの男前の旦那。お嬢ちゃんに似合いそうな帽子だろう。もっとまけてもいいぜ。」「なんだい。仕入れすぎて困っているんじゃないのか。」と言ってやったら「参ったなー。」と額を叩いて見せた。ケイトもケタケタ笑っていた。こいつは本当に外でこんな風に会話したことが無いに違いない。初めて見る表情ばかりである。道の右左を行ったり来たりしながら歩いて行く。
その頃にはケイトもだいぶうまく歩けるようになってきており、たまに店の前で止まってしまい俺をびっくりさせる。「どうした、早く来い。」と呼ぶとほっぺたをプウッと膨らませながら足早に駆け寄ってくる。ただそれすらも楽しくてしょうがないようだ。
みんな楽しそうに笑顔でおしゃべりしながら買い物を楽しんでいるようだ。周りじゅうの人々が幸福を満喫しているように見える。この街全部がスラムのわけはない。それはほんの一部だ。街の人々はみんなだいたい裕福に暮らしている。まともに家があり、家族がいて、それで仕事にもがんばれるのだ。したくても仕事がない。金が入らない。その日の飯を買うこともままならない。そもそも店もありゃしない。そんな俺たちとは住む世界が違っているようだ。悔しさも感じなくはないのだが、金を貯め込んでこのあたりに住もうなんて考えない。今よりほんの少し良くなればそれでいいと思う。身の丈に合う貝殻を選ぶヤドカリが正しいと思う。
しかし女ってのはそうもいかないもののようだ。欲しいものがあるといつまでも頭に残る。まだ子供の身なればそれも仕方の無いことなのだが。
いろんな店があり飽きることがない。どの店も自分の専門があり、いろんな種類のものを買うとなると自然とあちこち歩き回ることになる。人が行き交い活気が生まれる。スラムでも人はいる。安物でも店があれば客はいるはずだ。高いものは必要ない。その日の食料が得られればいいのだ。小麦粉や大豆以外にも何か必要なものはあるはずだ。

■プレゼント
ふと気がつくとまたケイトがいない。青ざめて振り向くとこいつはまた店の前で立ち止まり中をじいっと見ていたのである。俺も寄っていき、背中の方に廻ってケイトの頭越しに窓から店の中を覗いてみた。「ほお、こいつはすげえ。」思わず声が出た。店の入口近くの丈夫そうなガラスの箱に収められていたのは、なんとウズラの卵ほどもあるサファイヤのペンダントネックレスだった。「これはすげーな。おまえ、これが欲しいんだろ?」からかってやったらびっくりしてこちらを向き、「そんなことないわ。ゴメン、行こう行こう。」いや、これはかなり図星な反応だった。「おまえもああいうのが好きなのか?」と言うと「まっさかー。」と慌てている。ただ一言「ああいう青いのが好き。」ぼそりと言った。興味ありありなのが手に取るようにわかる。慣れてくるとわかりやすい奴なのだ。
ただその先にも女の子が興味ありそうな洋服屋とかが続くのだが、全く興味を示さない。変な奴だ。
通りを更に歩いて行くと店に挟まれて小さなスペースがあり、割と高い木の下でアクセサリー屋が汚い布きれの上に品物を並べて売っていた。通行人に声をかけまくってはブローチを勧めていたりしている。「あいつは……。」そうだ。先日小さい指輪を買ったあの店だ。今日はケイトも一緒だし、話すこともなかったが、指輪を持っていることは思い出した。「おい、ケイト」いつの間にかだいぶ先を歩いていたケイトが「なあに?」と振り向いた。「ちょっと手を出してみろ。」と言いながらケイトの左手を掴むと指輪をはめてみた。ケイトがびっくりして目をぱちくりさせたが、どうにも指に合わない。子供だし、無理もないのだが。結局うまく入ったのがなんと親指。「親指に指輪はねーだろうな。」と言ったのだが、本人はすでに手を顔の前に持って行き悦に入っているようにしげしげと眺めていた。やがてこっちを見てにっこり笑った。この頃時折見せる笑顔なのだが、今日のはかなりの破壊力であった。渡した俺がたじろいだのだ。ただ、今の稼ぎをかき集めた精一杯がこれ。ガラスとメッキの指輪だが、これだけ喜んでもらえれば、なけなしの金をはたいて買った甲斐があったというものだ。偶然に色が青だったのも喜びに拍車をかけたのだろう。

■店舗経営
その夜は大家も交えての営業会議となった。明日からケイトは早速店の手伝いをすることになる。普通の小売店のイメージというよりも問屋に近いような店なので目立つこともないだろう。取扱商品は重い物が多いので、ちびっこいケイトでも力が付くに違いない。俺は仕入れだ。つまりバイヤーだな。売れそうな物を探して店に置くわけだ。街を見たとき考えたように、今まで扱っていないいろんな物を探してみたい。めずらしい物を探し出すためには遠出する必要も出てくる。事実それからはちょくちょく遠くまで出かけることが増えることになる。
俺たちがそうして手伝うようになってみると、以外と客が来ることがわかった。大家のばあさん、案外貯め込んでんじゃないだろうか。
ケイトはといえば、これでなかなかオツムが良い。品物の整理とかもしっかりやっているようで、ばあさんに取ってくるように言われるとすぐに探して持ってくる。だいぶ重宝されているようだ。たまにはケイトも店に出ることがあるんだが、そうすると驚いたことに近所の子供らがケイトの姿を見に来てたりするのだ。少しずつではあるが、ケイトもスラムに馴染んできている。時々来る変なオヤジにいろいろからかわれても上手にあしらっている。こないだなんか、そのオヤジの女房がやってきて「文句も言わず買い物の手伝いをするようになったと思ったら、女の子を見に来てるんじゃないか。年を考えろ。このろくでなし。」と大いに叱られていた。まあ、でもまた来る。
大家のばあさんやカレンを見てもわかるように、このスラムでは総じて女が働き者のようだ。男連中はどっちかというと好きなことばかりやっている。
だが俺に関していえば、相当頑張って働いているぜ。近頃ではどんな物が欲しがられているかなんて事もいっぱしにわかってきているのだ。

■追加エピソード2

■一月後
そしてあっという間に一ヶ月が経った。俺はこの一ヶ月で、過去何十年分くらいは働いたはずだ。三角巾をかぶり、客の応対をするケイトも板に付いてきている。ばあさんなど、もう今や女主人気取りでああだこうだ指示を飛ばしてくる。
笑えるところがある。ケイトがあの青い小さな指輪を親指にちゃんとしているのだ。
この子は青が好きだそうだ。部屋に飾る物もその系統の色が多い。ばあさんに買ってもらったのは青いぬいぐるみ、小遣いを入れる青い巾着袋、ガラスの大きな青い花瓶。それにキャンディーも青がいいらしい。大人になりたいのか。と、これは冗談。
極めつけがあのでかいサファイヤである。何も言わないのだが、あのとき店の前でサファイヤを穴の空く程眺めていたこと。その時のキラキラした目は今も思い出される。
そして俺の部屋はもう以前の俺の部屋ではなくなっていた。キラキラである。
先日のこと、ばあさんが花を替えにやってきた時、例の青いガラスの花瓶を割ってしまった。ばあさんが怪我をしていると見るや、てきぱきと処置をして事なきを得ている。割れてしまったことについてはちょっとガッカリしていたようだが、今は別のやっぱり青い花瓶が置かれている。

■穏やかなひととき
この頃は夕食を三人で取ることが多い。食事は作るのも、食べるのも人数が多いというのは悪いことではない。全員「他人」なのにまるで家族のようになっていた。ばあさんは近所の噂話、ケイトは踊りのレッスンのことや、スラムの子供達のこと、俺は他の町の様子など、みんながお互いにとりとめもないことを話している。こんな普通なことが今できている。誰も飲まないので俺は酒を飲まなくなった。もしかしたらこれは俺が欲しかった幸せなのかもしれなかった。ケイトもばあさんも知らず知らずのうちに小さいながら幸せなひとときの中にいたのだ。口には出さないがこの「他人家族」全員がそう感じていたと思う。食事も終えてばあさんは帰り二人になる。ケイトは今日のレッスンがうまくいったらしく、俺にさわりを見せてくれている。「フンフンフン。ほら、ね、可愛いでしょ。」もうどこにでもいる女の子である。寝ているとき以外は本当にちょこまか動く子だ。動き回るたびにどこかしら部屋がきれいになっていく。野良猫が入ってきても騒ぐこともなくかえって構いまくっている。猫がさっさと行ってしまうと口をとんがらせて残念がっている。
ある日アパートの前の路地からこの部屋に向かって声がした。「ケイト、降りてこいよ。遊ぼうぜ。」窓から下をのぞいたケイトは「おー。」といいながら手を振っているが「外はダメなんだー。」と返事していた。俺も同じ窓から顔を出すとすかさず下の男の子から「アランおじさん。ケイトを独り占めするなよー。」などと言われてしまった。「うるせー、ガキ共。このお嬢様はな、外なんかに出さねえンだよ。」などと半分マジに怒鳴っていた。まあ、アイツらも顔をよく知っている間柄だし、追い返したところで全くへこたれないんだな、これが。
ケイトは食器棚を雑巾で拭き始めた。俺が「全くうるせえ奴らめ。俺がいないときもよく誘いに来るのか?」と聞くと「来ることもあるよ。でもいつも断ってるんだ。」一応笑って言っている。俺が「本当は一緒に遊びたいだろ。」と水を向けると「ううん、私も自分のことはよく分かっているし。誰に見られるか分からないもんね。」と返してきた。更に「アラン。あなたそれヤキモチ?」とまでのたまった。「バッ、バカヤロウ。」
いろいろ女遊びも派手な俺だったが『全くのかたなし』なのだ。可愛い。しかしそんなことが不憫でならない。
だが後でばあさんに聞いて知ったのだが、たまに子供らとちゃっかり外に行っているらしい。「男を騙す手練手管まで備わったのかよ。」あきれてぼやくのだが、俺の顔はにやにやしている。もしかしたらこれが骨抜きって奴かもしれない。三十路男がなんたる様だろう。
たまに安い服が手に入るので、着てみろよと言っているんだが、服については何だかあまり興味がない顔をする。どこかに仕舞っているようだ。といっても狭い部屋のこと、すぐに見つけるんだなこれが。それらはケイトのベッド脇の茶色の大きな袋にそれはまあ丁寧にたたんで入れてあった。手に入れた日付と誰からもらったかがきちんと描いてある。「何だよ。興味なさそうな顔をして、うれしさ溢れまくってるじゃねえか。可愛い服を見つけたらまた買ってきてやろう。」引き続き服も探しておかなくては、と思った。
一番上の服を引っ張り出してみる。胸のあたりに大きな白いリボンがある青いワンピースだ。実はこれはブライアンが外国の商人からがめた、と言っていたものだ。「うん、これもなかなかいいじゃないか。」と言いながらも若干のジェラシー。「もっと可愛いヤツを見つけてきてやる。」と言いつつ何となく両肩の部分をつまんで自分の肩に合わせたりしているのに気づき慌てて袋に戻した。

■新商品
この町では塩がとても高い。あまり入ってこないのだ。塩を扱う商人達は国を南北に縦断する街道を行き来してあちこちの町へ塩を運んでいるんだが、俺たちの住んでいるこの町はイワンの屋敷の裏の山によって街道から隔てられており、そのルートからはずれている。そのために塩がどうしても高価になる。
イワンは裏山を抜ける道を造ってあるという噂もあり、そこを通って塩をため込んでいるらしい。もちろん敷地でもあるその山を他の人間に登らせるわけもなく、かといって山をぐるりと廻ろうとすると国を横断しそうなくらい遠まわりしなくてはならず、誰もそんなことはしない。結局この町の塩はイワンの所でしか扱えない。独占状態だ。
そこでオレはこっそり山を越えることになる。低い山さ、とタカをくくって行ってみたんだがこれが困難な道で、土壌が弱く、足元からボロボロと崩れていくのである。大丈夫なのかこの山は。そんな気がしたのだ。それでも何とか山を越えると意外に楽にその街道に出ることが出来た。なるほどイワンって奴はこうして塩を楽して得ているんだな、ということがよくわかった。街道沿いのいろいろな街を見て歩く。なるほど店には小麦や大豆に混じって真っ白い塩が置いてある事が多い。馬車があるわけではないのでわずかなものだが、できるだけたくさん仕入れた。
またこっそり山を越えて街に戻ると早速店で売る。金の無い連中に売るので安くしてやると、これがけっこう売れる。三日もすれば無くなってしまう。やばい場所を通るためにそうそう仕入れはできないのだが、あまり金を持っていない客達がその安い塩を持って帰るときの嬉しそうな顔を見るとまた行ってこなくては、と思ってしまう。
そのうちに仕入れる町が定まってくる。街道沿いの町では有る時無い時があるので、どうしても商人達が仕入れる大元の町に行くようになるのだ。当然大きな町である。仕入れも空振りになることはまず無い。それにいろんな新しい品物の情報も入るのだ。盗人家業に精を出していた頃の知り合いにも会ったりする。
「おう、アランじゃねえか。こんなとこで会うとは。まさかこの町で悪さする気で来たのか?」一人の男が話しかけてきた。「よお、サムじゃねえか。いや、今は足を洗ってな。雑貨屋を手伝っているんだ。今日は塩の買い付けさ。」そう答えるとその男、サムは「おう。おまえの町は塩の道を外れていてあまり人が行かないからな。いいところに目を付けたな。おまえの所は大豆が豊富にあるだろう。今度分けてよこせよ。俺からは塩を分けてやるぜ。」交渉は簡単に成立だ。
しかしこのサムって男は塩以外にも有用な商品を扱っていた。
「おいアラン。大きな声じゃ言えないが実は俺は火薬を扱っている。塩の場合の5倍の大豆で交換してもいいぜ。」と来た。かなり怪しい取引である。ちらりと金のことが頭に浮かんだ。欲をかいたのだ。

■誓い
火薬を背負ってイワンの屋敷の近くを通るのはかなりの危険を伴う。しかしこれはかなりおいしい商品だ。塩の入った袋で隠すように山を越え川を渡り自分のアパートに着いた。
「この頃イワンの子分達を町で見かけることが多いのは気のせいだろうか。ケイトにはあまり店に顔を出さないように行っておこう。」そんなことを言いながら寝ているケイトの脇をそおっと通る。
火薬なんて物騒な品物を女共に見せるわけにはいかない。こっそり部屋に隠す。明日はブライアンの所に行ってみるつもりだ。
「なんだこれは?」ふとテーブルの上に置かれたものに目が行った。「ありゃ?あのペンダントじゃねえか。」びっくりしたがそんなはずは無い。良く見れば偽物である。というかひどい造作だが手作りだ。しかしちゃんと青い宝石が着けてある。そういえばこないだ青いガラスの花瓶を割ったとか言っていたな。どうやらそのかけらをチェーンでくくってあるだけのもののようだ。ベッドからはみ出たケイトの指に包帯が巻いてある。ペンダントを作っていた時にガラスで切ったものに違いない。よっぽど欲しいんだな。俺はその時ふとケイトがこれを首にかけてにっこりしている姿が浮かんだ。必殺のナイフを投げる女では無く、12歳のあどけない少女の笑顔だった。本物は無理だから自分で作ったのだ。指を切りながらも。そう思った時、不意に何か強い感情が俺の中にこみ上げてきた。おいおい、俺はどうしちまったんだ。胃の中をくすぐられるようなむずがゆい感覚だった。大声を出したくなるような衝動が襲う。「これは何なんだ?」自分でもわからない。ケイトに始めて会った頃を思い出す。冷たく突き放していたことを。今にして思えばそれにじっと耐えていたケイトの顔。踊りのレッスンが決まった時の輝いた表情。褒められることの無い料理を作る顔。いろんな顔が思い出される。「俺はケイトに同情しているのか?憐れみか?いや、ちがう。」その時俺は12歳のガキンチョのケイトを初めて愛しいと感じたんだ。そして同時に守ってやりたいとも思う。ケイトが自分のこれからのことをどう考えているのかはわからない。だが夢を叶えてやりたいのだ。親も判らず囚われの身となり、高額商品としての付加価値を叩き込まれたただの少女を幸せにするために持てる愛情を全て捧げたい。人生を賭けて。そう思ったのだ。俺はその気持ちのこもった偽ペンダントをぎゅっと握ると「俺が本物のサファイヤををおまえの首に絶対に掛けてやる。」そう誓った。
どうやらその時には俺の頭のねじは緩んでどこかに飛んで行ってしまっていた。

■決断
すっかり年寄りと幼子の養育係と化している。もうすっかり心を入れ替えたお兄さんになっている。周りの目がすっかり変わってきている。思いもよらなかったことだ。むず痒くもどこか誇らしい気がすることは確かである。
だが俺の心の中では黒いものが徐々に徐々に大きくなってきている。今の小さな幸せをぶちこわそうとしているのだ。
あれは相当大きなサファイアだ。当たり前に買えるわけがない。だがケイトの喜ぶ顔が見たくてしょうがない。盗んだものを喜ぶわけなどないのに。もうケイトのためでも何でもなく、自己満足だけなのではないか。それでもとにかく手に入れなくてはならないのだ。もうすでに俺から見ればケイトの胸元が物足りなくてしょうがない。サイズじゃねえよ。ネックレスが足りないんだよ。頭の中はもうすでにあのでかいサファイアペンダントを首に提げたケイトの姿で埋められている。俺はもう壊れてきているのかもしれない。それを渡したらもうこの町とはオサラバするしかなくなる。他の町へ逃げなくてはならない。いや、外国へ逃げるか。「ウィーンもいいかもな。」ふとつぶやいていた。
この事はただ一人、ブライアンだけには相談した。「本気で盗むつもりか?」さほど驚くでもなく聞き返してきた。
「ああ、もちろんだ。武器はなくとも火薬がある。これを上手く利用して何とか成功させてみせるさ。」久々に嫌な笑顔を作って言った。ブライアンは「相当な入れ込みようだな。ケイトは可愛いからな。」とからかうように言った。そしてこんなことを言い出した。「アラン、俺はできるだけの協力をする。何でも言ってこい。実はな、今月うちにはこの町を出ようと思っていたんだ。定住せずに一年中各地を演奏して廻って暮らそうと思っている。この大仕事を手伝ったらここをオサラバする。」初耳だ。「アンタも出て行くのか。じゃあ俺は別の方角に行くとしようかな。」と冗談で言ってみた。

■計画
店の窓から中を覗くと、すぐ近くに大きなガラスの棚があり、一番上にデンとそのネックレスは飾られている。丁度ケイトの目の高さくらいだろう。店に侵入し、ガラスを割ってそれを取り出し、ポケットにねじ込んでしまえば終了だ。
深夜近所の公園で爆発音がする。同時に店の扉が壊れる。速やかに侵入し、ブツを頂く。それだけのことだ。公園のおとり爆発はブライアンの仕業である。いい大人がよくもまあこんな簡単な計画を立てたものだと思うだろうが、オペレーションは単純であるべきなのだ。
その後しばらくは何事もなく過ぎていった。ケイトは店で接客したがっているが、広場や商店街の方でアランの部下達を見かけるようになってきているので控えさせた方がいいだろう。それを言うとケイトは「はいはい、わかってます。」とむくれて見せた。何をやっても可愛いのだ。これぞザ・親バカだ。もうすぐその胸元に肩こりするほどでかいネックレスを掛けてやる。これを想像するともうワクワクが止まらない。
そしてある夜、ブライアンの小屋に行った。「来たぜ、アランだ。」そう言って中に入ると機嫌の良さそうなヤツの顔があった。「いよいよ明日の夜決行だ。雲行きが怪しい。雨になるかもしれない。だが雨天決行だからな。」と声を掛けると「ああ、もちろんかまわないさ。俺はすでに馬車の準備もできている。公園で爆発騒ぎを起こしたら俺はすぐに町を出る。西へ向かうつもりだ。」ヤツはそう言うとニヤリとした。「そうか、俺は全てが済んだら東へ向かうとしようか。ウィーンへ行ってみたい。」と返した。「カレンか、あいつもそろそろ初舞台が近いんじゃないか?」とブライアン。いろいろよく知っているヤツだ。

■決行の夜
翌日は曇っていた。昼になっても空が暗い。もうすぐ一雨来るかもしれない。天気がどうだろうと計画に変わりはない。
そして雨の夜がやってきた。どうにも気が急いて困る。
深夜の商店街は人がいなく不気味だ。真っ暗なのだがやはり進入は裏口からにした。足下に気をつけなくてはならないが、通りから入るより良さそうだ。裏口に立つとひさしがあり、丁度雨をしのげる格好になっている。ブライアンの合図も間もなくだ。
扉の前にうずくまっていたその時。突如周りが光に包まれた。稲光である。今だとばかり体が反応した。少量の火薬に火が付きボンと扉が向こう側に倒れた。同時にバリバリッと雷鳴が響く。「何か楽に入れたな。よし、ショーケースだ。」俺はそーっと足を忍ばせ家の中を進み店の方に近づいた。「ん?何かおかしい。」何となく口から出た言葉だ。わずかだが様子がおかしいのだ。人の気配はないが、灯りを点けずに慎重に店に入り、ショーケースに近づいた。足下にいろいろ物が置いてあるようだが、踏まないようにしながらショーケースの中を覗く。「うわ。」驚いた!ガラスが無いのだ。いや、割られていた。驚いて目を凝らすとそこにあるはずのサファイアのネックレスが無い!「どういうことだ?」思わず声を出しそうになる。そう、誰かが先に盗んだのだ。
その時男の声が先ほど入ってきた裏口の方から響いた。「誰だ?」
「なんてこった。先を越されていたとは!」心の中でそう叫んだが、行動は速かった。もうなりふり構ってはいられない。表側から逃げるしか無い。店の内側からは簡単に扉は開いた。暗い通りに出ると俺は一気に走って逃げた。すると公園の方からまた爆発音がした。ブライアンだ。これはナイスタイミングだ。追っ手はこちらには来ず、公園に向かっていったようだ。

■犯人
その頃はもう雨足も強くなってきており、走る姿も水煙でよく見えない。好都合だ。スラム街の谷に戻りブライアンの小屋に辿り着いた。当然彼の姿は無い。もう町を出ているかもしれない。「くそっ、もっと速く決行していれば良かった。何てことだ。俺が先を越されるなんて。まさか他にもあれを狙っているヤツがいたとは。」今更悔しがっても後の祭りだ。「このままでは終わらせない。絶対に奪い返してやる。」そう誓った。
するとそこにブライアンが戻ってきた。「アラン、いるのか?」とブライアンの声がした。「おう。」と答えると彼は入ってきた。「宝石はどうした?」と聞くので俺は事のあらましを説明した。彼も驚いていたがやおら「今日は町を出られなくなった。」とつぶやいた。「俺は無理だが、アンタは関係ないだろう。これまでのことは感謝している。もういいんだ。それより何故まだここにいるんだ。」と俺は言ったが、ブライアンは思案顔でこう言った。「確かにやることはやった。だがおかしいんだ。公園に数人の男達がやってきたんだが、あれはイワンの子分達だった。解せなかった。だが今の話を聞いて判った。盗んだのは奴らだ。」俺は目を見開いて驚いた。「あいつらイワンのとこの奴らだったのか。あいつらが盗んだんだな。そのあとに間抜けな俺が盗みに入ってきたわけか、畜生。」歯ぎしりして悔やんだ。ブライアンに「それでアンタはどうするんだ?」と聞くと「おまえがどうするかによって決めたいんだがどうする?」と逆に聞き返された。どうするもこうするも無い。「わかりきってる。これだけコケにされたんだ。ブツは盗み返すまでだ。」そう答えるとブライアンはニッと白い歯を出して笑った。「じゃあ答えよう。オレも手伝うさ。」
初めて見た笑い顔かもしれなかった。まあ、ケイトの笑顔と違って別に何度も見たいとは思わない。しかし今回だけは嬉しく、しかも頼もしい。
俺が、これからすぐに向かうと言ったら即座に同意してくれた。「すぐに動けば金庫に入れられる前に押さえられるかもしれないからな。」
尤もだ。すぐに支度をする。持ち物はまだまだ残っている火薬。ナイフ。小さな石ころ。些細な得物だが無いよりはいい。

■奪還
雨はほとんどやんでいた。俺たちは草むらに突っ伏していた。すぐ目の前ににはアランの屋敷の玄関に通じる長い上り階段が見える。じっとしていたら俺の頭に何かがぶつかった。小石だ。ぎくっとしたが、どうやら裏山から落ちてきたらしい。ブライアンはこちらを向いて「まだ奴らは戻っていないようだ。」と言った。「何故わかる?」と尋ねるとこう言った。「階段の上の門に人がいるだろう。あれは戻った仲間を邸内に入れたあと、すぐに門を閉じるためにいるんだ。」彼は前にも言ったが、たまにブライアンの屋敷でも商売をしていたのだ。味方で良かった。「イテ!」ははは、どうやらブライアンの頭にも小石が当たったようだ。ただ俺と違うのは恨めしそうに山を見上げていたことだ。
しばらくするとだいぶ目が闇に慣れ、ある程度遠くも見えるようになってきた。流星を見る時も、目の瞳孔が開き明かりを最大限に取り入れられるようになってからが勝負だ。
ブライアンが小声で「帰ってきたようだ。誰かが宝石を持っているはずだ。おまえの例の模造品と入れ替えてやれ。」と、さも楽しそうにささやいてきた。なかなかの悪党ッぷりだ。こいつが裏切ったらもう死体になるのは決定的だろう。生憎偽ペンダントは持ってきていない。
いくつかの打ち合わせの後、ブライアンはほとんどの火薬を抱えて山に登っていった。あの山は足場が悪く、すぐ崩れてしまうのだ。地盤が相当もろいのだろう。そんな中、音も出さずにあっという間に見えなくなった。「あいつは本当に何者なんだろう。」そう思わずにはいられなかった。
屋敷の入口への階段の中程に俺は火薬やら石ころを撒いておき、導火線役の紐を付けてきた。一方の端はこの手にある。また階段下の草むらに戻った頃ようやく俺にも人の気配が伝わってきた。そっと階段を中程まで上り、そこでじっと待つ。さて、俺はこれからは詐欺師としての仕事に取りかかるのだ。
すーっと息を吸い込むと俺はまくし立てた。「おいっ!大変なんだ。お屋敷に誰かが忍び込んだらしいんだ。早く来てくれ。」反応は早かった。「あのコソ泥野郎に違いないぜ。」「屋敷に入ったら二度と出られないってわからせろ。」口々に声を上げて駆け上がってきた。その時一人の男が確かに巾着袋を胸にしまうのを俺は見た。「奴だ!」俺は火薬を撒いたあたりに直接マッチの火を投げつけ、階段を駆け下りるとその男に飛びかかった。階段の上から飛びつかれた男はもうひとたまりも無い。そのまま下に転げ落ちた。その時大きな火柱が立ち上った。ついでに石つぶてが彼らに襲いかかる。パニックになった。だが俺は後ろも見ずにさっき転げた男を抱えるとナイフを突き出しめいっぱい脅かして胸の巾着袋を頂く。夜目にもわかる深く美しい青い宝石がきらりと一度だけ輝いた。
その時山の方から重く響く音がしてものすごい閃光が四散した。男の腹を蹴り気絶させ、山伝いに走って逃げた。もうこんな所に用はないのだ。それこそ「脱兎のごとく」駆けていた。
もろい山だったのだ。小石が落ちてきた時ブライアンにはこれがわかったのだ。目論んだ通り嫌な地鳴りが起きて、地面が揺れている。一目散に小屋に戻ってみると何とブライアンはすでに戻っていた。「丁度今戻ったところさ。」と言っていたが、逃げ足も一流だ。
薄暗いランプの下でもそのサファイアは美しく輝いていた。吸い込まれるよう、とはまさにこのこと。それを見つめたまま目がもう他に移動させられなくなっていた。これをケイトに掛けさせたい一心で手に入れたのだ。
だがこれを渡したらサヨナラだ。
「これはすごい物だな。」ブライアンが覗く。そして言った。「おまえはあの子にやるためにこれを盗んだのか。豪気なことだ。」などと言っていたが、俺にとっては今為すべき最大の事柄なのだ。首に掛けてみた。「重いな。」とつぶやく。ブライアンは「似合う!」と馬鹿にしていた。長い長い夜も間もなく明けようとしていた。二人はこの先のことを話し合っていた。俺は東に、ブライアンは西に。それぞれ思うところあって町を出て行くのだ。それならばと言うことで、俺はブライアンに一つ頼み事をした。
そしてアパートへ向かう。

■別れ
慎重に行動していた。何しろ今の俺は大変な物を持っているからな。
アパートの自分の部屋に戻る頃には、東の空がうっすら開けてきていた。黒、青、白、黄色、オレンジ。美しいグラデーションが窓に広がった。いつの間にか雨は完全にやんでいたのだ。部屋に入ってみるとケイトはベッドで無くテーブルに突っ伏して寝ていた。俺を待っていたのだろう。薄い肉が皿の上で冷えて固まっていた。ケイトにそっと顔を近づけてみた。ミルクのにおいがした。ゆっくりと寝息をたてていた。その後はうなされることも無くなっていた。あろう事かよだれまで垂らしている。今日初めて笑いそうになった。指で拭ってやる。ちょっと舐めてみる。ああ、もう俺は町を出て行くのは決定事項なんだが……、挫けそうになる。
がさごそとネックレスを出した。起こさないように首に掛けてみた。この頃は着る物もだいぶましになってきたが、それでも安物には違いない。そこにこのペンダント。場違いも甚だしいのだが。それでも俺にはこれ以上無いほど似合って見えた。一生懸命働いたって偽物がせいぜいだ。でもおまえにはこの青い宝石、これこそがふさわしいのさ。さあ、完全に夜が明ける前に出発だ。長い逃亡生活になるだろう。「あばよケイト。」俺はきびすを返すとそーっと部屋を出て行った。大家の戸の前で一瞬立ち止まって、またすぐにアパートを離れた。防寒コートを着込むのを忘れたが、まだそれほど寒くは無い。かまわず町の外へ向かった。谷沿いの道でブライアンが歩いてくるのが見えた。彼も旅支度をしている。ギターらしき大きな荷物を背負っていた。「じゃあな。後は宜しく頼むわ。」と声を掛けると、彼は小さく手を上げた。俺は広場の端を歩いて人に会わないように注意しながら公園の通りをゆっくり歩いて行った。

■最後の言葉
やがて大きな門を抜け町の外に出た。外は一面の草っ原だった。所々に木が立っているが大した数では無い。山らしい山と言えばイワンの屋敷の裏山くらいの物なのだ。いつの間にかだいぶ明るくなった空は星が見え残るくらいに晴れ渡っていた。これから向かおうとしている東の空はすでにだいぶ明るくなってきていた。
その時ズズズという大きな音が足下に響いてきて、今立っている道もグラッと揺れた。振り返ってみるとあの裏山がガラガラと崩れ始めていた。豪邸とはいえさすがに山と比較すれば小さいイワンの屋敷は赤黒い土煙に埋もれていった。今になって本格的に崩れてきたのだ。

続きます。